久しぶりに庭の草むしりを行った。何しろ休日といっても家にいるだけで何らかの仕事をしていることが多いため、草むしりなどする暇が無い。さすがに夏本番になり、庭の端
の方の草の存在がかなりやばい状態になっている。お隣さんから苦情の来ないうちに何とかせねばならない、ということで草むしりを始めた訳である。
しばらくすると茫茫の草の中からカラカラに干からびた何かが出てきた。最初は何であるのかわからなかったのだが、繰り返し良く見るとミイラになった猫である。確かにこの場所、軒に隠れて雨が当たらず、日当たりも良い場所である。しかしミイラになるとは。
どのような生き方をした猫だったのだろうか。天寿を全うしたのであればそれは幸いである。病気や餓死であればかわいそうである。さすがにこのまま放置するわけにもいかず、かといって庭に埋めるわけにもいかない。懇ろに合掌の後、家庭ごみとして出すことにする。
自分は仏教徒である為、輪廻というものを信じている。この猫が来世は現在よりも境遇の高い状態で生まれ変われることを祈るのみである。
そういえば最近の仏教寺院ではペットの供養をしてくれるらしい。転生輪廻を繰り返す中でたまたま畜生として生まれただけであり、命の重みとしては人も畜生もその違いが無いとの判断によるものである。と、この話を書いていて、墓地で○○家愛猫○○之供養と書いてある塔婆が添えられた墓を見たことがあるのを思い出した。ここまでしてもらうと無くなった猫も幸せだろう。
ところが、キリスト教会ではそのようなペットの為のミサは行ってくれない。キリスト教は転生輪廻を否定している為、当然であろう。ずいぶん以前の雑誌で読んだのだが、欧米(当然キリスト教徒が多い)ではペットロスの状態になった場合に心のやり場を抑える場所が無くなり、ペトロス症候群という一種の精神的疾患になるものが多い言うものである。我々日本人としてはペットが無くなった場合は自然と手を合わせることに躊躇することは無いであろう。これはどのような信仰をしていたとしても、家族同様の使役家畜と一緒に暮らしてきた農耕民族日本人の心に刻まれたDNAでると思う。
今日はミイラになった猫君の成仏を祈って一杯飲ることにする。
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